編集長・満若より富樫渉さんからf/22へのご批判に対する応答

これは5月31日に投稿されたディレクターの富樫渉さんから頂いたf/22へのご批判に対する応答です。

ご批判の大部分は川上さんのTwitterや論考に対する部分が多かったので、具体的な点に関しては彼の応答を参考にしていただければと思います。

私は編集長としてf/22に対して問われた点に関してお答えします。

まず、頂いたご批判には「そもそもf/22ってなんやねん?」という疑問があるなあと感じました。

確かに「作り手によるドキュメンタリー雑誌」という、けったいな雑誌を理解してもらう努力が足りなかったように思います。

ちなみに、f/22は私が中心となり立ち上げた雑誌ですが、己のエゴを発露する為に作ったわけではありません。作り手たちの言論の場を提供する事が目的です。

本当は極力前へ出ずに皆さんの話をニコニコと聞きながら編集長として触媒役に徹したいのですが、人生なかなかうまく行きませんね。

f/22という集団について

f/22(「f/22編集部」)は、ドキュメンタリーの作り手たちによる有志による集団です。集団というと組織として一つの方向に向かって活動するように思われがちですが、そうではありません。思想も職能も背景も違う作り手たちが、一つの色に染まらずに、個人としての思いや声を届けること大切にしています。

f/22の集団としての目的は以下のとおりです。

1)作り手によるドキュメンタリー批評雑誌『f/22』を刊行すること。

2)誌面における作り手の言論の場を保証する事。

3)雑誌の販売に関連するイベントや営業活動、ウェブサイトの管理をおこなう。

1)についてはご存知のとおり。編集会議を行い、誌面の方向性を決定。あとは各編集員が原稿作成に取り掛かり、それを編集長がまとめる。このような流れで『f/22』を制作しています。

2)はついては、異なる意見を尊重するということです。誹謗中傷や法に反するような内容である場合を除き、どんな言論でも保障します。繰り返しになりますが、f/22はあくまで記事を掲載するということが総意であって、記事の個別具体的な内容については編集員の間でも意見が異なりますので、f/22の総意であるとは言えません。

ただし、掲載した記事について批判やクレームがある場合についてはf/22が責任をもって対応します。(今回の場合は、編集員・川上さんの論考や発言に対してのご意見が主だった為に本人が対応しています。)

3)について。これまで雑誌の刊行以外にイベントの開催や上映会、ウェブでの記事公開などを行ってきました。これらはf/22主催ということで、編集員全員の賛同した活動となります。

という訳で、上記以外についての個別具体的な事案(記事の内容、イベントでの発言)については、基本的にf/22の総意ではなく個人の責任の範囲で行われています。そのため、記事には必ず執筆者を記載しますし、総意として発信する際は「f/22編集部」もしくは編集員の連名で公開します。

SNSについても、所属組織が個人の発言する機会を縛るようなことがあってはならないと思いますので、あくまで○○という個人の発言となります。

f/22のTwitterアカウントは基本的には告知用です。そこで何か議論をすることはありません。

次に『童貞をプロデュース』問題について。

これは上記1)~3)に該当しない少々イレギュラーな事案です。

f/22の総意として表明している部分をまとめました。

a)この問題を取材し、『f/22』の誌面およびウェブサイト上で公開すること

b)1月21日に出された松江哲明監督note、および記事掲載拒否への抗議声明。テープ起こし起しの公開。

c)直井卓俊氏と加賀賢三氏の対談記事を公開したこと。

この3点になります。

つまり、編集員の問題への関わり方や論旨についてはf/22の総意ではありませんが、記事・抗議声明を公開した責任はf/22にあるという事です。

ご理解いただけたでしょうか?

以上がざっくりとではありますが、f/22としての基本的な考え方です。とはいえ、そこまで理解して頂くのはなかなか難しいと思います。批判する際はまとめてf/22としていただいても構いませんが、できれば具体的にf/22○○として頂けると幸いです。


次に富樫さんからの問いについて応答します。

ここからは、編集長である私個人の見解となります。

ご批判の意図を汲み取りながら応答できればと考えていますが、誤解や見当はずれな意見になってしまった場合はご指摘いただければと思います。

権威どころか、f/22という集団すら形成することも出来ず細々と業界の片隅でドキュメンタリーを生業にしている身として、自分はf/22に問いたい。

ドキュメンタリー業界(そもそもそんなものがあるのか?)というあまりに弱く小さい世界の更に隅っこで、権威と名指して戦う相手は果たして「そこ」なのか?

これは川上さんのtweetや論考への問いですね。私を含め川上さん以外の編集員はネットでの発信が控えめですので、どうしても彼が目立つことになっています。川上さん、すいません・・・。

さて、この問いの意図としては、批判するのであれば同業者ではなくもっと大きな敵がいるのではないか?狭い世界で戦って内ゲバみたいでみっともない、ということだと理解しました。

まず川上さんの思いを私なりに乱暴に解釈すると「同業者として恥ずかしいからもうちょっとしっかりしてくれよ!」「自分たちの業界のことなんだから自分たちの手で改善しないと誰がやんの?」ではないでしょうか。ジャーナリストではなく一人の作り手としての立場は崩していません。

これを内ゲバと言われればそれまでですが、それすらない業界が嫌で立ち上げたのがf/22です。内ゲバ上等です。

そして創刊号にも書きましたが、f/22が戦う相手は内ゲバを嫌う空気です。森さんや座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルへの批判は風通しを良くするための過程であると私はとらえています。

また、「権威」として批判したことに違和感を覚えていらっしゃるようですが、「権威」は「影響力」と言い換えると如何でしょうか?その影響力を認めているからこその批判と読めば、それほど無理筋な批判ではないし、ましてやルサンチマンではないとご理解いただけるかと思います。

逆に富樫さんご自身は森さんのツイートや座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルについてどのようなご意見をお持ちなのでしょうか?ぜひお聞かせください。

「第三者」ではなく「当事者」としてSNS上での祭りが孕む加害性をどう考えているのか?

この問いは、f/22の批判が呼び水となって松江さんへの誹謗中傷が行われた、つまりはf/22もまた加害者であるのだ、と読めます。ですが、SNSでの加害性と批判するという行為は切り分けて考えるべきです。当然、ネット上においても誹謗中傷は許されませんし、支持しません。

そもそもSNS上での祭りは、松江さんがnoteを投稿したことから始まった出来事なので、その責任はf/22ではなく彼にあると思います。

私は松江さんに対してどれくらい誹謗中傷がなされたのか把握していません。ですが、結果的にf/22が加害行為を扇動した形になっていたのであれば、考える価値のあるテーマだとは思います。

ドキュメンタリーを作り続ける以上、作品が意図せずに被写体への誹謗中傷に利用される可能性は排除できません。今回のように結果的に加害を扇動する可能性はあります。難しい問題なので今すぐにはお答えできず申し訳ありません。

逆にお聞きしたいのですが、富樫さんは、あの時f/22がどのように対応すればよかったとお考えでしょうか?

昨年末の対談以降、f/22は当事者という立場になりました。その為に冷静になれていない部分もあったかもしれません。私の意識として、その時は最善の判断をしたつもりですが、周囲の眼にはそう映らなかったのかもしれません。f/22は聖人君子ではありませんし、間違いを犯すこともあるでしょう。ネット上の祭りを扇動しない形で事実を公表する方法はあったのでしょうか?

そしてあなたたちが「正しい」と考えるドキュメンタリー表現はどのようなものなのか?

正直なところ、これまで「正しさ」という価値基準で発言していませんし、作品作りをしていないので、ちょっとピンときません。「正しい」ドキュメンタリー表現はない、と乱暴な返答もできますが少し考えまてみます。

この問いに関連した記述を本文から少し引用します。

自分はドキュメンタリーはあくまで「表現手法」であり、報道やジャーナリズムのように必ずしも真実を明らかにし、権力を監視し、弱者を守り、さらに被写体に敬意を払ってその尊厳を守る「べき」ものであるとは定義出来ない。ドキュメンタリーそれ自体は必ずしも「社会的」なものであるとは限らないし表現されるものが「正義」であるともまた限らない。
各々の作品においてそれらのバランスはゼロ or 100ではなく、「程度」であり、その程度の範疇で被写体との関係性を構築していく。そのようなあやふやな表現手法だからこそ、程度の淡いで「加害」が発生するものだと考える。

(中略)

これは邪推だが、このような否定しがたいドキュメンタリー表現が持つ「業」そのものを法的に禁じられる危険性を直感的に察しているからこそ、この問題の当事者たちは互いに司法の場に出ないのではないか?もしそうだとするならばその直感は正しい。言わずもがな表現の自由が揺るがされる可能性があるからだ。

富樫さんのご意見をまとめると、ドキュメンタリーに「正しさ」や「~すべき」ものという概念は存在しないし、仮にそれらを持ち込むと表現の自由と対立する。そして、そのような概念の下で法規制されると表現活動がやりにくくなるので、f/22(主に私と川上さん)の主張は作り手にとって有害でしかない、という事になります

その上で「f/22が主張する正しさとは何ぞや?と」いう問いに繋がったのだと推測します。(司法に出ない理由は川上さんが説明していたので省略します。)

さて、似たような理屈で松江さんから批判されたような記憶があるのですが、それは一先ず置いておきます。そもそも撮る者・撮られる者の問題である本件に、表現の自由という概念を持ちこむことに対して私は疑問があります。

もしくは、この件に関しては社会的な問題提起のみでとどめておくべきだった、ということを言いたかったのでしょうか?ドキュメンタリーの方法論にまで射程を伸ばすと表現の自由にぶち当たるので避けるべきだと。

ですが、ドキュメンタリーの方法論にまで射程を伸ばさないのであれば、それこそ地に足のつかない理屈だけの主張になってしまいます。f/22で取上げる意味がありません。

それに今の日本において表現の自由(私はざっくりとして口当たりが良いこの言葉が苦手です。)は守ったり、揺らいだりするものではなく、各々の表現者が獲得するものだと私は考えています。

仮に、この問題を表現の自由という文脈で真剣に考えるのであれば、例え社会的に非があると判断されても、松江さんは決して謝るべきではなかったし、加賀さんをあらゆる手段で徹底的に叩きのめして黙らせなければならなったと私は思います。その覚悟もなしに、表現の自由や被写体の尊厳は守らなくてよい、と主張するのはあまりにも傲慢ですし、作り手の身勝手ではないでしょうか。

だから私や川上さんが主張しているのは、表現の自由よりも倫理的な「正しさ」が勝るとか、そういった議論ではありません。富樫さんがおっしゃる「程度」を見極める為に、よくよく考えよう、という事です。

そして、同じドキュメンタリーの作り手として「『絶対に』加害者にならない」作品を作り得るのかどうか?

ドキュメンタリーに限らず、加害者になる可能性は生きている以上ゼロにはなりません。身近な例でいえば、自動車を運転すれば人を殺す確率はグンと上昇しますが、だからといって運転しないということはないでしょう。

というわけで、大事なのは加害者になることを恐怖するよりも、加害者になった時にどうするのか?ということではないでしょうか?もちろん加害者にならないように気を付ける必要はありますが。

そういう意味では、松江さんが加賀さんと和解してその後どのように立ち直るのかという点は、とても大事なことだったんですが・・・。

f/22は今年の座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルでも売っていたと思う。

自ら社会的責任を問うた相手の祭りに乗っかって営利行為を行うことに対してはどのように考えているのか。この辺りも知りたいところである。

批判することと、関係を保つことは両立します。批判しつつも利用できる部分は互いに利用し合うのはとても健全な関係性だと思います。また、委託販売ですので主催者側にもお金が入り両者にとってメリットがあります。批判したから縁も切らねばならないというのは、あまりにも寂しい考え方だと思います。

逆にお聞きしたいのですが、営利行為はそんなにイメージ悪いんでしょうか?松江さんからも掲載を拒否する理由の一つとして挙げられていましたよね。

少なくとも今こうやってキーボードをたたいている時間はお金にならないし、ウェブの記事についても当然赤字です。すくなくとも雑誌を作った以上は経費分くらい回収したいと思うのですが、それってそんなにヤマシイでしょうか?

それとも皆さん本音では「f/22はフリーペーパーでやれよ!」と思っているのでしょうか?

ひとまずf/22に問われた部分に関してはお答えしました。

改めて、まとまったご批判をしてくださった富樫さんにお礼申し上げます。

f/22という集団の分かりにくさゆえに、私と川上さん双方から応答が出る形になったことはご了承ください。同じf/22の一員とはいえ、問題への考え方や取り組み方は異なります。結果的に何がベストな方法なのかは誰にも分かりません。だから私は川上さんのやり方を尊重しますし、私は自分のやり方を通します。一つではなく色々な方法があるからこそ意味があると私は思います。それが「f/22」というタイトルに込めた想いでもありますので。

最後に、なぜf/22 が社会正義を振りかざすように見える振舞いをするのかについて触れておきます。

そもそも、この問題についてf/22とガジェット通信(映画ライターの藤本洋輔氏)以外に当事者に話を聞いて取材したメディアを私は他に知りません。つまり本件は「社会的な問題」にすらなりえていないというのが現状です。

「同業者としては・・・」という議論を始める為には、社会的な問題であるという位置付けが議論の前提として必要なのですが、本件はそうではありませんでした。

つまり、やるべき人たちがやらないからf/22がやっている、ただそれに尽きます。そしてf/22 で取上げる以上は、同業者としての議論にまで展開させるのは必然です。出来ればこのような背景までご理解して頂けると幸いです。

長々と失礼いたしました。ご不明点ありましたら気軽にご連絡ください。


以下、補足として森達也さんをゲストにお呼びしたf/22主催『ドキュメンタリーの立脚点 撮られる者たちの眼差し』に関連した時系列を明記しておきます。

11月18日
f/22編集会議 『i新聞記者』が公開されたばかりだったタイミングもあり、イベントゲストとして森達也さんへの打診することで同意する。

12月8日
森達也さんがイベント登壇を受諾。

12月17日
松江哲明さんから取材依頼。

12月24日
カンパニー松尾さん対談。

12月30日
直井卓俊さん対談。

12月31日
松江哲明さん対談。

1月20日
松江・直井・松尾の三者から掲載拒否の連絡。
『ドキュメンタリーの立脚点 撮られる者たちの眼差し』開催

1月21日
松江哲明さんnote
投稿直井卓俊さんのインタビュー記事がシネマトゥデイに掲載

1月22日森達也さんがTwitterで「f22のシンポで言ったことをくりかえす。松江哲明は僕自身でもある。」と投稿
f/22による抗議声明公開

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。