劇場版『荒野に希望の灯をともす』公開記念 アフガニスタンで与えられたもの ~中村哲医師を悼む~ 

江藤 谷津さんはどれぐらいの頻度で取材に行かれるのですか。

谷津 二一年取材を続けてきたといっても断続的であって、多分アフガニスタンに渡った回数は二五、六回ですね。一回行くと一ヵ月位いますので。二〇〇八年に伊藤さんと言う日本人ワーカーが残念ながら殺害されて、それ以来現地に残った日本人は中村医師だけなので、二〇〇八年以降は現場に行けば中村医師と二人だけという状況でした。

 二〇〇八年位からアフガニスタンの治安はどんどん悪くなっていきましたので、基本的には取材先では自由に動けずに、中村医師が行くところに一緒に行くだけでした。今回、中村医師が残念ながら銃撃されてしまった同じ車の後部座席に私はいつも座らせていただいていました。

江藤 中村医師と谷津さんは、現地ではどういうことを話しているんですか。

谷津 ドキュメンタリーでまとめると限られた時間の中で紹介するので、中村医師がある種の聖人君子のようなところが強調されてしまっているきらいがあるなと思っているんですが、実は中村医師は非常にユーモアがあって茶目っ気もある方なんです。こんなことを言うと中村医師に怒られそうですが、普段はボーっとされているただの、おとっつぁんみたいな方なんです。ですが、中村医師と言う人は用水路を作って水を引くと決めた後、私が傍で見ていた限りでは二四時間三六五日どうやったら水が流れるかと言うことをひたすら考えている人でした。そうするとそれ以外の事はどんどん抜け落ちていくので、有り体に言うとなんだかとぼけた発言も多いですし。

江藤 何か覚えているエピソードはありますか

谷津 くすっと笑ってしまうような話をする前に中村医師のすごい話を少ししないといけないと思うので、そのお話をちょっと先にしますね。私は二一年ものあいだ中村医師の取材をさせていただいていたのですが、あの人は巨人なので、群盲象をなでるじゃないですが、そばにいても巨人すぎて全体像を捉えるのは至難の業で今も全体像はつかめていません。ただ、あえて非常に短い言葉で中村医師とは何者か言う話をするならば、それは古い言葉で言うと、仁を持った義の人というのが一番ぴったりかと思うんですね。皆さんご承知のように仁と言うのは他人に対する慈しむ心とか他人を愛する心、医は仁術なりの仁ですね。さらに中村医師が行う行為が、人として正しい行いをすること、つまり義を行う、義の人だと思ったのです。凡百の人間が義だとか正しい行いをするなどと言うと陳腐に聞こえるんですが、そこアフガンと言う危険なところで体を張って何十年も活動してる人が言うと、発する言葉から、私は正しい行いをする人だと思っていました。

 中村医師ご自身はあまり語っていませんでしたけど、中村医師ご自身が敬愛する人のなかに、足尾鉱毒事件の田中正造、日本最大のキリスト者であった内村鑑三、それと宮沢賢治の三人がいました。私の故郷は栃木の足利でして、田中正造さんの事は小さい時から聞いていたのですが、義の人というのがぴったりくるような人でした。

 中村医師は仁と義のある人、比類なき知性と比類なき胆力というか肝が座っている方です。比類なき知性というのは、ある意味ダヴィンチ的な天才なんだろうなと思っていました。かつての九州大学医学部時代の同級生のドクターの方に、お話を伺ったところですね、医師としても非常に優秀で、もともと精神科医でそのキャリアを始めて、脳神経外科へ移ったんです、その後、パキスタンに行かないといけないことになって、中村医師は外科、内科、産婦人科などのありとあらゆる医学を勉強し直しているんですね。

 パキスタンに最初に赴任したときはハンセン病治療専門医としていく事になっていたので、韓国に半年留学してハンセン病を学ばれました。それでいて用水路を作ると言うような話になったときに、用水路というのは非常に複雑で精緻なもので溝を掘れば水が流れるというものではなくて、まず水を取り込むという難問と、百メートルで一〇センチずつ傾斜つけていく精密な測量があって初めて水が流れるんですね。結局、中村医師はそれを全て短期間でマスターしないといけないので数学と物理学、流水力学とかですね、ありとあらゆることを勉強し直したらしいです。とにかく独学でマスターしたことによって用水路を作ってしまったんですよ。

 加えて、中村医師はそのあとに大きなモスクも建設しているんです。八百人も入る規模のモスクなので崩れたら大変なことになるため、中村医師は構造計算も自分でされているんですね。構造計算は日本では一級建築士とかですね、そういう資格を取った人間が初めてできる技術なんですね。耐荷重が何トンならここに鉄筋が何ミリ入って、どういう粘度のコンクリートを流し込むかなど、土木の基礎的な知識が相当わかっていないとできないことなんですよね。それを独学でマスターしたらしく、どうされたんですか?と聞いたら、笑いながら、真面目にエクセルで計算しましたと言っていました。表計算ソフトで構造の耐荷重とか全てやっているんですよ。ダヴィンチ的というのはそういう意味ですね。

 さらに特徴的なのは、胆力ですね。現地で物事が極度に荒れている時とかですね、僕なんかそばに行くのも恐ろしいなと思う時も中村医師は全く動じないんですね。その度胸と言うのは見事なものだと思っていました。中村医師が活動していたアフガニスタンのパシュトゥン人の世界はですね、男性は正しい勇気があることが、もっとも価値がある事として重きを置かれているんですね。アフガン人が中村医師のことを慕った理由は、人々の暮らしの為に新しいことを実践する信義を見せて、さらに正しく勇敢だったからなのだなと思います。

 だからこそ中村医師はなかなか代わることができない存在なんです。中村医師ができるなら日本のゼネコンに頼めばいい、一〇〇億円ぐらい出せば用水路なんて何本もできるじゃないかと言った人がいるらしいんですが、それは不可能なんですね。アフガンの非常に保守的な世界、ほとんどが農業で生きるパシュトゥン人の土地に対する執着は強く、札束を切って用水路ができたら、とっくにアフガンは良くなっているはずなんですよ。中村氏がそういうことまで全て見通して、度胸と親愛の情を示しながら少しずつ用水路を伸ばしていったというのが実態だと思います。

江藤 しかもキリスト教でいらっしゃるんですね

谷津 中村医師はクリスチャンです。パシュトゥン人と言うのはちゃんとキリスト教も認めていてですね、キリストはメッセンジャーの一人だと言って、決してキリスト教徒を排除するような偏狭な人たちではないです。ただ報道ではアフガニスタンと言うのは一歩入ればタリバンという世界から嫌われた人たちがいて、恐ろしげな人たちが闊歩していて、入った途端取って食われてしまうような、そんなイメージを持たれていますが、そうではなくてそこには普通の暮らしがあって、お父さんお母さんと子供が暮らして農家が野良仕事をして、商人は商売をしてそういう生活がきちんとあるんですね。私も同じ業界にいますが、報道によってアフガニスタンと言う国のイメージが悪くなっていくことを中村医師が気にはされていました。

 それから中村医師のお茶目な話ですね。さっき言ったようなダヴィンチ的な天才である度胸があって博愛主義者ありましたが、中村医師はさっき言ったように、この人のお世話をしたいなぁと思わせてしまうところがあってですね。私と二〇〇二年、まだ比較的治安がまだ良かった頃に、アフガニスタンの地方に行ったんです。それで農家に泊めてもらって、それぞれ違う部屋に泊まっていたんですが夜、中村医師が私の部屋をノックするんですよ。「谷津さん風邪薬は持っとらんとですか?」と聞かれたので、私が持っていたを瓶ごとに中村医師に渡したら、ありがとうございます、と言って戻っていかれたんです。すると、部屋に戻ってから一分後ぐらいに戻ってきて、「何錠飲むとですか?」と聞いて、またその後に戻ってきて「食前ですか?食後ですか?」と聞くんですよ(笑)。

 中村医師は、ドクターでありながらとぼけたところがあってですね、そういう部分が非常に中村医師らしいなと思います。

 中村医師というのは、事をなしているときとそうではないときの普通の人としてのギャップがすごくある方なんですよね。非常に人間らしい温かみもあって、くすっと笑ってしまうような魅力のある方でした。

江藤 そういった部分も撮影しようとは思われなかったですか?

谷津 それは難しくてですね。中村医師もよく分かっていて、カメラがある時はあまりそういう隙は見せず、カメラを回していないときにそういったことを言ったりするんですね。

江藤 ドキュメンタリーでは、聖人君主のような人でもどこかに人間的なところがあったり、ずるいところがあって、そういった部分を通して、その人を描くというようなことを言われますよね。そういうところを狙っていくと、逆に谷津さんは中村医師を撮れなったのかもしれないし、さらに人の多面性を撮るということの貧しさ、そこにしか発想がいかない貧しい部分というのもあるのかなと、考えながら伺いました。

谷津 中村先生の取材は毎回毎回撮れるものが同じなんですね。アフガニスタンの現場に行ったら、自由には動けないんです。中村先生は何も言わずにパワーショベルに乗ったらずっと降りてこない。ずっと土木作業をしていますから。あとは撮れるとしたらインタビュー。こういうものばかり撮っているんですよ。総時間だと千時間ほどの素材があるので、まだまだ活用したいのですが、そういう意味では、今言ったようにずっと同じものが撮れているので、会社の中でも谷津はいつまでこんな取材しているのか、という批判があったんですね。

 今度は業界の話になってしまいますが、テレビ番組制作会社というのはお金がないので、先にテレビ局が企画を判断して、OKが出て、じゃあ予算は何百万円ですね、何千万円ですね、とある程度打ち合わせをして番組を作って放送する、という流れなんですね。しかしアフガニスタンに限ってはですね、危険地帯すぎてテレビ局が許可を出せないです。

 NHKだろうがテレビ朝日だろうが、アフガニスタンの番組を作りませんか、と言ったらまず危険すぎて普通は許可が出ないんですね。なので、勝手に行って勝手に撮ってきてるというのが実情で。これは逆説的なんですが、電波ニュースの私が勝手に行って勝手に撮ってたからこそ、ある種の中村医師との関係が築けて、二一年という積み重ねが可能になったのではないかと。この言い方は変ですけれども、ある種の映像記録的な、九〇年代の終わりから二〇〇〇年代にかけて中村医師がアフガニスタンで何をして、どんなことを成し遂げたのかということが、私のカメラではかなり克明に記録できているのではないかなと思っています。テレビ局と一緒にやっていたらそれはできなかったと思いますね。

江藤 それが谷津さんの喜びでもあるわけですね。

谷津 さっきの江藤さんの質問にちゃんと答えていなかったのですけど、私は表現者である以上、同じものを撮り続けていると困ったなと思うことも勿論あります。中村医師の表面から分からないことも取材できないか、撮れないか、ということは当然何度も考えてですね、挑戦めいたことはしたことはあるんです。ただですね、これはその掛け値なしに皆さん信じてほしいんですが、中村医師というのは、どこにも裏表がない方なんですね。

 当然、誰にも言えない苦労とか葛藤とかは人間だからあります。ましてや用水路を掘るという非常に大きい責任を一人で負ってましたから、プレッシャーの中にいらっしゃったとは思うんですが、そういった中村医師の人間的な悩みとかは、片鱗は撮れたのですが、一方でその中村医師が人としてて本当に苦しかったこと、悲しみにあったことなど「偉人・中村哲」ではなく「人間・中村哲」にはカメラでは迫ることが出来なかったのでは…と思っています。それでも中村医師の人間観がわかるインタビューが撮れたこともあります。私が二〇〇六年にでした。

 その時は、私がアフガニスタンでとにかくその活動することの難しさというものを訊いたのですが、中村医師の答えは「どの国にもいい人も悪い人もいます。私もアフガニスタンで何度も人に裏切れられ、何度も人に騙されてきました。でもこの国で泥棒をする人がいると。その泥棒というのも日本や先進国の様に、遊び金が欲しいとかね、競馬で擦ってしまったから人のお金を取ってやろうという人はいない。大体は子供がいるお父さんが、明日自分の子供にどうやってご飯を食べさせようかっていう風に考えあぐねた末に、すいません、ちょっとだけ人様の物を頂いているという様なことだというのがほとんどだ。」と答えたんですね。中村医師は、そういう意味ではアフガニスタンは暖かい社会と言えるんじゃないかという風に評していたんですね。

 それで、で、中村医師が最後に言ったのは、そういった部分を引っくるめて「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」ということを仰ったんですね。だから中村医師というのはどんなに人に裏切られても裏切り返さない。暴力があっても、暴力をもって暴力に報いない、という風に言っていたんですね。ですからとにかく「人は愛する、愛すべきものである」と。で、真心というのは全世界どこでも共通したもので、信ずるに足るというそこにその人としてのお互いを信頼する立脚点というのを中村医師は見出していたんだと思うんですね。

 それは中村医師が人を見る時の全てだと思うんです。人は愛するに足り真心は信ずるに足ると言ったこの言葉が僕は一番印象的ではありました。ですので、中村医師の何か普段見えないことを撮ろうとか、そういった邪心というのは見事に打ち砕かれてですね、ひたすらその後は中村先生のそばで映像記録をしてきただけです。

江藤 ありがとうございました。時間が迫ってきているので、誰かどなたか質問をして頂けたらと思います。

男性 敢えて谷津さんにお聞きしたいのは、長い取材の中で中村医師の人間形成について印象に残っているところを教えて頂けますか。

谷津 はい。私も中村医師がどういう環境で育ったのかというのは正直非常に興味がありまして、十数年前くらいに色々と取材をしたことがあるんです。中村医師の母方のおじいさんが玉井金五郎さんと言う方で、当時の若松港のですね、玉井組という沖仲仕を束ねる、まあ有り体に言ったらその神戸港での山口組と一緒ですよね、玉井組の組頭で背中に彫り物が入ってた様な人なんです。その息子で作家の火野葦平さんと一緒にですね、ある時期にあまりにも港湾労働者の苦しい厳しい生活を憂いてですね、元請けとの賃上げ闘争に入るんですね。当時、若松港を仕切っていた元請けは三井財閥などで、そうした支配層がお爺さんの玉井組を潰せってことで、ヤクザ者をけしかけてですね、玉井金五郎の命を取れという大騒動が起きたんです。それが『花と龍』という小説で、これまで三回映画化されているんですが、中村先生のお爺さん役をですねそれぞれ高倉健さん、萬屋錦之助さん、石原裕次郎さんと三大スターが演じたんです。

 とにかく胆力ある人だったけども、お爺さんは非常に優しい人で、別け隔てなく人と接し、常に弱い者の側に立つような人だったとのことです。家にはマルクスレーニン全集があったと中村医師は仰っていました。そういう意味ではアンビバレンツな中で育ったので、中村医師は冗談めかして「私は右翼にも左翼にも人気があります」なんておっしゃっていました。小さい時にその玉井金五郎さん、それと玉井金五郎さんの奥さんだった玉井マンさんというお婆さんからですね、繰り返し「困ってる人がいたら助けろ、目の前に倒れてる人がいたらそれを必ず助けなさい」と。「弱い者いじめは絶対にするな」ということは言われたと中村医師から伺いました。

 だから小さい時からその弱い者の側に立つようにということは、どうも強くお爺さんお婆さん、それと中村家の方のお父さんからも言われていたとしか思えないですね。

江藤 それ実践し続けられるということが驚きですね。

谷津 そうですね。

谷津 中村医師がお爺さんのことを思ってやってるわけじゃないんですが、『花と龍』を読むとですね、まあヤクザ者が鉄砲や日本刀を持って玉井金五郎の命を取るってことで玉井組に行って玄関を開けるとですね、中村先生のお爺さんが、まあ褌一枚で座ってたらしいんですね。で、切るなら切れと言ったらしいんです。当時の切った貼ったの世界で、武装をしないで切るなら切れっていうのは、向こうにしてはおかしいことなので、どういうことなんだということで結局話し合いで収まったらしいんですね。

 それで、実は中村医師はアフガニスタンで同じことをやっていまして。ある診療所に地元の有力者が患者の列を守らずに、横入りで自分の子弟を早く診察させようとしたんですね。中村医師はそれをダメだと言ったところ、地元のヤクザ者ですから鉄砲を担いで十人くらいで診療所を撃ってきたらしいです。当時、部下もナースもドクターも元兵士ですから、家に帰れば銃があるような世界ですので撃ち返しましょうと中村医師に言ったらしいです。ですが中村医師は「一発も撃つな」と。「一発でも撃てば、この診療所はつぶれる」と。「診療所がつぶれて困るのは患者だ」と言って部下たちに撃たせなかったらしいです。アフガンでは、鉄砲で撃って相手が撃ち返してこないということはありえないので、向こうは「お前らは何で撃たないんだ」と言ってきて、それで「こっちは撃つ気ないぞ」って言ったら、向こうは「え」ってなって話し合いで収まったと中村医師は仰っていました。金五郎さんがやっていたことを、時と場所を変えて全く同じことをやっていたんですね。ご自身では意識されていないようですが、生まれ育った環境が中村医師に強く影響を与えていてたと私は思います。

女性 今回亡くなって、映像を見ても、あの人がいたということをなかなか地続きに感じられないんです。正直、中村哲さんの話になると圧倒的正しい人に対して何も言えないみたいな、ちょっともったいないなという空気があるんです。私が今日お話を聞いていて、かわいらしいところ人間らしいところはなかなか撮ることはできないと分かりました。だとしたら、どうすればあの人がいたんだということ、遠い世界のすごかった話ではなく、もっと現実的に考えることができるのでしょうか?これまで撮ってこられた立場としてどう思われるのか、最後に教えてください。

谷津 確かにそれは腑に落ちるご意見だなと今お聞きして思いました。確かにそういうことがあってですね、中村医師は、ご自身があまりにも聖人君主として祭り上げられることがあまりいいことではないと実は思っていたんですね。人として血の通った中村医師の浪花節的なところ、すっとぼけたおじさん風なところ、そういうところも含めて、今どうしたらうまく伝えられるのかということについて答えは出ていないです。ですが、中村医師のご葬儀のときに、現ペシャワール会の会長で九州大学の一年後輩の村上先生がですね、中村医師はいろんな文章を残していたと。それは非常に硬い文章から、河童の話とか水にまつわるものもいろいろ残されていて、それは金の鉱脈と一緒だと仰っていたんです。それは丹念に探すと、中村医師が残した言葉、私のインタビューもそうなんですが、今自分たちがどうしたらいいのかということに対するある種の答えが含まれていると思うんですね。それは先程の質問の答えにはなっていないと思うのですが、中村医師を聖人君主にしないためにどうしたらいいのかということについて、これからの私自身も何か工夫をしないといけないと思っています。中村医師のそばにいた人たちにインタビューを重ねて、周りの人たちが中村医師をどう見ていたのかを聞いて人物像を浮かび上がらせるというやり方は、一つの方法として考えられるかもしれないなと思います。

江藤 本日は短い時間でしたがありがとうございました。

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劇場版『荒野に希望の灯をともす』

監督・撮影 谷津賢二 
構成 櫻木まゆみ
構成・制作 上田未生
製作・配給 日本電波ニュース社 2022年/日本/カラー/90分

ポレポレ東中野 他全国劇場にて公開中

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